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[5] 政治的扇動文書としての「レイプ・オブ・南京」

投稿者: 鹿島明 投稿日:2019年 6月 1日(土)15時39分34秒 FL1-111-168-40-82.kng.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

「レイプ・オブ・南京」を通読したのちに思う第一印象としては、この本が歴史研究などという言葉に値しない、ただのイエロー・ジャーナリズムに立脚した政治的扇動(プロパガンダ)文書であるということだ。
本文240頁のすべてがゴシップ記事ないしプロパガンダと言っても過言ではない。
「あそこの奥さんは、昔、ポルノ女優だったのよ」「あそこのダンナは昔、泥棒でヤク中で殺人鬼で強姦魔で手がつけられないヤクザだった」という宣伝ビラと大差がない。
歴史研究というからには、自分の見解が立脚する資料の真偽や重要性まで含めて論じなければならないところ、そのような形跡は一切見られない。また、自分の見解に相違する側の意見についても様々な観点から検討を加え、扱っている時と場所・状況に最も適合すると思われる見解を論証しつつ結論に導かねばならない。
ところが、「レイプ・オブ・南京」に於いては、東史郎や田所耕三のような、既に日本では論証されつくして相手にされないザンゲ屋、中帰連会長の富永正三、同じく中帰連(太原組)の永富博道の「証言」は真なるものとして大幅に採用する一方、それらと相反する東中野修道・藤岡信勝・阿羅健一・富沢繁信らの研究は無視している。とりわけ、1989年に皆行社が発行した「南京戦史」の記述との整合性について全く検討していないことは、歴史研究としては致命的といえる。
そのため、p46(第2章)から延々と続く大量殺戮・大量強姦の描写は、ミニー・ヴォートリン日記や佐々木到一少将の「南京攻略記」、同盟通信から従軍記者として第二〇連隊(福知山)司令部に随行して南京市内に入った前田雄二記者の記録である「戦争の流れの中に」の記述と著しい対比をなしている。いずれの記述に真があるかは、毎日新聞カメラマンの佐藤振寿らが撮った写真によって明らかになるであろう。
筆者は、「レイプ・オブ・南京」初版が発行された1997年という年に注目したい。この年は、反日愛国教育を推し進めた江沢民が1993年に主席に就いてから4年目にあたる。
1989年の天安門事件で中国の知識青年を敵に回した共産党は、独裁政権維持のための正当性を見出しかねていた。そこで、日本軍国主義という仮想敵を創り出して中国民衆の不満を過去の日本に向けさせる一方、軌道に乗り始めた経済成長を開発独裁によって更に進めて社会に富をもたらすことで民衆の間から湧き上がる民主化への欲求を押え込んだのだ。
この頃、筆者は、鄧小平の時代に作家・陳瞬臣の「中国の歴史」の翻訳本にあれほど熱狂し、「自分たちの国に、こんな豊かな歴史があったのか」と満足していた中国民衆が、どうして反日という一点に凝り固まっていくのか不思議に思っていた。
反日が行き過ぎて経済交流まで支障が出始めた矢先に江沢民から胡錦濤へと政権交代となり、表立った反日は収まったものの、底流としては鄧小平時代から一貫して存在していたと考えてよいだろう。その証拠に、南京の大虐殺記念館は日中蜜月時代と呼ばれた1983年に建設が決定され、鄧小平自身が「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫している。
表向き日本に摺りより、「賢くて勇敢、勤勉な日本人に学べ」「日中は一衣帯水」などと世辞・追従を弄し、その裏でこのような信義にもとる陰険な行為をする。民主化を求める無防備な若者の平和的なデモ行進に向けて銃を発砲し戦車でひき殺し、それでいて一向に恥じるそぶりすらない。これこそが中国の政治と政治家の限界であろう。
それはともかくとして、「レイプ・オブ・南京」が天安門事件ののちの共産党が、中国の社会・政治状況のなかで置かれた立場から、一種の「しのぎ」としての反日愛国精神の発揚のなかで生まれたことだけは間違いないだろう。アイリス・チャン自身が、1994年、サンノゼ郊外のクパチーノで開かれた「世界抗日戦争史実維護連合会」(「抗日連合会」)主催の会合に出席して、初めて子供の頃に両親から聞かされていた「南京大虐殺」のおぼろげな映像が自分のなかで形造られた(p9)と述べている。
「レイプ・オブ・南京」が、「抗日連合会」が提供した資料に依拠して書かれているだろうことは、想像に難くない。


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